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「フクシマ」に寄り添う協同組合運動を(にじ 2013年 夏号 No.642 オピニオン)

「フクシマ」に寄り添う協同組合運動を

松岡 公明
にじ 2013年 夏号 No.642

 5月、福島県で開催された日本協同組合学会春季大会に参加して伊達市霊山町小国地区と飯舘村を訪ねた。小国地区は典型的な中山間地域で「日本のふるさと」といえるような新緑の自然がそのままにあるが、放射能は目に見えない。「稲刈りができなかったこの秋は何か忘れ物をしたような気持ち」という農家の声にあるように、水田の作付制限が行われ、自然と人間の「協働」による四季を彩る田園風景がなくなっていた。山菜のシーズンであるが、山野の恵みの楽しみも奪われている。そうした目に見えない価値への賠償はない。同じ地区内で、特定避難勧奨地域の指定を受け避難した世帯、指定は受けたが留まる世帯、公的な支援を得られず自主避難した世帯、支援もなしに今までどおりの生活を余儀なくされる世帯が混在する。わずかな空間線量の違い、子供がいるかいないかで、指定の線引きが行われる。指定世帯には各人に賠償金が支払われ、税金や保険料等も免除されるなど、指定をめぐるわだかまりがコミュニティや人間関係まで影響し、会話や挨拶もしないという時もあったという。

 飯舘村はもっと悲しい。人が住まない村、人の営みのない村の姿のなんと悲しいことか。涙を必死にこらえた。菅野村長は「放射能は村民の心を分断し続けている。まさに精神戦争である」と語った。戻りたい人、戻りたくても戻れない人、戻らない人、戻る判断がつかない人、それぞれ村民同士の深刻な分断と対立が生まれている。家族が離れ離れの避難生活も2年が経過し、健康、介護、仕事・勤め先、子供の教育、家族の絆、コミュニティの崩壊など様々な悩みが蓄積、村民の焦燥感は限界に近い。除染、賠償問題も不確定要素が多く、国や東電への不満・不信、怒りが渦巻く。「精神戦争」の言葉の意味は重い。

 それにしても、現場は想像力を超えて、あまりにも残酷すぎる。いったい事故収束宣言は何だったのか。電力会社の再稼動申請、さらに原発の輸出の動きは何なのか。アベノミクスで株価に一喜一憂している国民像は何なのか。たったの2年で原発問題は確実に風化している。人間に忘却はつきものであるが、「フクシマ」を忘却させてはならない。協同組合の基本的な価値観は他者への思いやりである。原発事故の不条理と理不尽と格闘している福島の人々や協同組合を思いやり、敬意をもって復興への道程に寄り添うことである。ひたすら寄り添い続けることで、協同組合運動が人間尊重、人間復興へのパラダイム転換にどういう役割を果たしていくのかも見えてくるのではないか。